HISTORY立教学院の沿革

全世界に散らばる聖公会

全世界に散在する聖公会は、イギリス国教会を母体として生まれ、その伝統的遺産を継承しつつも、それぞれの国の相違を受容して形成された共同体です。

立教の創立者チャニング・ムーア・ウィリアムズ(1829~1910)は米国聖公会から日本に派遣された宣教師でした。

ウィリアムズは、まだキリスト教禁制の1859(安政6)年、最初の新教宣教師の一人として長崎の地を踏みます。

しかし本格的な伝道は明治政府が禁教を解く1873(明治6)年まで待たねばなりませんでした。

立教の始まり-「道ヲ伝ヘテ己ヲ伝ヘズ」

師は、1874(明治7)年二月に築地居留地に「私塾」を開いて英語を教えはじめた。

これが、「立教学院」の始まりです。「立教」という名の由来は、師が、初代キリスト教会を確立し、異教民族への布教活動を行った聖パウロの行蹟にあやかり学生・生徒を教育すべくセントポールスと命名し、和名「立教」はこれに対応して「教えの建設」の意で名付けられたと考えられます。

1875年に日本専任主教となった師は日本聖公会を組織し、立教学校内に神学校を設け聖職者の養成にも努めました。

師は体の衰えるまで日本での宣教に努めた後、1908年故国に戻り、2年後やすらかに永遠の眠りにつきました。

享年81、生涯独身でした。1912年、立教関係者は師の生まれ故郷リッチモンドに記念碑を建立し「道ヲ伝ヘテ己ヲ伝ヘズ」と刻みました。

「自由の学府」

立教をはじめキリスト教諸学校は、明治期においては教育・文化に先駆的役割を演じましたが、官立学校を中心に教育制度を一本化し天皇を頂点とする挙国一致体制を推進する国家の方針は私学、特にキリスト教学校には厳しく、中でも明確にミッション・スクールとしての性格を堅持し続けた立教学院は常に苦しい立場におかれました。

しかし創立者の後を継いだ指導者たちの熱意により立教学院は次第にその陣容を整え、1899年当時全学院生徒数においてすでにミッション系最大(約350名)の規模を持つにいたり、1907年には専門学校令による大学を設立するに至ります。

実にこれは日本における最初のキリスト教大学です。

校歌に謳われる「自由の学府」は、国家の権威にこびず、屈しない立教の伝統を示すものです。

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